詩篇45篇
指揮者のために。「ゆりの花」の調べにのせて。コラ人による。マスキール。愛の歌。
45:1 すばらしいことばで私の心は沸き立っている。王のために私が作った詩を私は歌おう。私の舌は巧みな書記の筆。
この詩は、王のために作られました。王は、主イエス様の比喩になっています。
45:2 あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。
文の構成として、神の祝福が唇の言葉の理由として示されています。「祝福しておられるからだ。」と。しかし、原語には理由を示す接続詞はなく、前のものを受けて、結果を示す接続詞が使われています。「それで」のように。
「あなた」は、人の子らに勝って麗しい方です。ですから、この方は人の子ではないことになります。この方は、神が立てた王ですが、人の子らに勝って麗しいのです。
それは、唇から好意が流れ出るからです。人々に対して、目に適った者として好意をもって語られるのです。
それで、神は、永久に祝しておられるのです。そのように人を愛して人を治める方であることが、父なる神様にとって喜びであるのです。父なる神様御自身が人を愛しておられるからです。
・「優しさ」→目に「適う」、心に「適う」こと。唇から流れ出るものとしての「好意」のこと。
45:3 勇士よあなたの剣を腰に帯びよ。あなたの威厳とあなたの威光を。
あなたの剣と記されています。剣は、御言葉の比喩です。この人が持っている教えのことです。特に、剣に例えられるときは、判別能力の鋭さを表しています。主イエス様にあっては、その持つ教えは、父の御心に完全に整合していました。それを腰に帯びることは、御言葉を力を持って実践することを表します。物事を分別し、御心に適ったことを実践するのです。
それによって、威厳と威光が現されます。
45:4 あなたの威光は勝利のうちに進み行け。真理と柔和と義のゆえにあなたの右の手はあなたに教えよ。恐るべきわざを。
御言葉によって歩み、威光が現されることは、御言葉の目的を果たすことであり「成功」なのです。それは、真理と柔和と義によって実現します。真理は、御心を行うことです。柔和は、謙りです。義は、御心を行うことで結ばれる義の実です。これが恐るべき、偉大な業として右の手によって現されることなのです。それが、イエス様を教えることになります。すなわち、実践によって身につけるのです。
・「勝利のうちに」→成功する。
・「真理」→御心。またそれを行うこと。
45:5 あなたの矢は鋭い。国々の民はあなたのもとに倒れ王の敵は気を失う。
矢は、真理の教えを表しています。
矢は、裁きのために放たれます。これは、たましいの比喩としての腎臓を射通し、また、矢の毒は、霊に及びます。それで、国々の民は、王のもとに倒れるのです。矢は、真理の教えを表しています。国々の民が倒れることは、その真理の教えの前に裁かれることや屈服させられることを表しています。
また、王の敵は、気を失います。ここには、王の敵と記されていて、明らかに敵です。その敵は、太刀打ちできないので、気を失うのです。
--以下参照
民数記
24:8 彼をエジプトから導き出された神は、彼にとっては野牛の角のようだ。彼は自分の敵の国々を食い尽くし、彼らの骨をかみ砕き、矢をもって撃ち砕く。
骨は、その人の持つ教えあるいは考えの比喩。矢は、教えの比喩。いずれも教えの比喩です。ここでは、敵対者の教えを打ち砕くことを比喩で語っているのです。
・「矢をもって撃ち砕く。」→矢を粉々にする。第二版「彼らの矢を粉々にする。」
申命記
32:23 わたしはわざわいを彼らの上に積み重ね、わたしの矢を彼らに向けて射尽くす。
32:42 わたしの矢を血に酔わせ、わたしの剣に肉を食わせる。刺し殺された者や捕らわれ人の血に酔わせ、敵のかしらたちの首を食わせる。』」
そして、神の教えである真理の言葉は、矢に例えられています。また、剣も真理の言葉の比喩です。ここでは、それらによって裁きをなし、敵を打つことを語っています。
--参照終わり
45:6 神よあなたの王座は世々限りなくあなたの王国の杖は公平の杖。
そして、王は、神によって祝福されています。その神は、世々限りない王座に着かれます。その方が与える栄光は、永久のものです。そして、その方の支配は、公平です。どのような者に対しても同じ基準で裁きをなさいます。
45:7 あなたは義を愛し悪を憎む。それゆえ神よあなたの神は喜びの油をあなたに注がれた。あなたに並ぶだれにもまして。
そして、義を愛して、悪を憎みます。それが神の裁きの基準です。その基準によって王をご覧になられます。その時、神は、王を喜ばれます。誰よりも喜ばれたのです。それだけ王は、義であったのです。すなわち、神の御心を行われたのです。
注ぎの油として表現されています。これは、御霊を注いだことの比喩です。義を喜んだのですが、さらにそのような人を通して御心を行わせるために、御霊を注がれるのです。
45:8 あなたの服はみな没薬アロエシナモンの香りを放ち象牙の宮殿に流れる弦の調べはあなたを喜ばせた。
その服は、香料によって香っていました。没薬アロエは、死を表しています。それがこの方の良い香りとなっています。シナモンと訳されている語は、ここにしか記されていませんが、カシアのことで、木の皮を粉砕して香料とします。それは、砕かれることを表しています。
象牙の宮殿は、象牙によって価値が高いことを表していますが、象牙は、象の死をもって得られる物で、これも、十字架の死によってもたらされる主イエス様の栄光を表しています。
45:9 あなたの貴婦人たちの中には諸国の王の娘らもいて王妃はあなたの右に立つ。オフィルの金を身に着けて。
王の貴婦人たちは、高貴さを持つ者たちのことです。それは、雅歌書に見るように、自分を捧げた娘に適用されています。
雅歌書
6:11 私はくるみの木の庭へ下って行きました。谷の新緑を見るために。ぶどうの木が芽を出したか、ざくろの花が咲いたかを見るために。
6:12 気づいたら、私は民の高貴な人の車に乗せられていました。
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娘は、自ら行動するようになりました。その時、彼女は、高貴な人の車に乗せられていました。そのように、王の前に高貴であるという評価は、自ら身を捧げることへの評価を表しています。
その中に諸国の王の娘らもいました。彼らは、異邦人です。しかし、王のもとに連れて来られました。
王妃は、王の花嫁です。彼女は、オフィルの金と言われる高級な金を身に付けていました。この金は、義を表しています。娘たちの高貴さと同様に考えるべきで、義の行いを表しています。
45:10 娘よ聞け。心して耳を傾けよ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。
45:11 そうすれば王はあなたの美しさを慕うだろう。彼こそあなたの主。彼の前にひれ伏せ。
ここには、娘の出自と関連して記されています。
娘に求められていることは、自分の民と父の家を忘れることです。それは、彼女の出身地である異邦の国のことです。霊的には、この世を表します。彼女は、召し出された者として、この世のものを忘れるのです。そして、王を主としてひれ伏すのです。主にのみ完全に服従するのです。その時、王は、その美しさを慕います。それが王にとっては、目に適ったことであり、心惹かれるのです。
雅歌書
7:1 なんと美しいことか。高貴な人の娘よ、サンダルをはいたあなたの足は。あなたのももの丸みは飾りのようで、名人の手のわざだ。
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娘が自分を捧げ、自ら主のために歩みだしたとき、その足すなわち歩みは、美しいものとなりました。
45:12 娘ツロは贈り物を携え民のうちの富む者もあなたの好意を求めて来る。
娘ツロは、異邦人の人々を表しています。贈り物を携えて来ることは、捧げ物を携えてくることであり、礼拝や奉仕の実を表しています。それは、王の顔を求めてのことです。顔は、栄光の現れを表しています。好意は、意訳です。
民のうちの富む者も、顔を求めてきます。王の栄光を拝するために来るのです。
・「好意」→顔。
45:13 王の娘は奥にいて栄華を極めその衣には黄金が織り合わされている。
ここには、王のものとされた者について記されています。
王の娘は、王のものとされた信者の受ける栄光について示しています。
奥にいることは、王のために隠されていることを表しています。人の目には触れないのです。私たちの受ける栄光も、隠されています。
そして、栄華を極めています。それが信者の受ける栄光です。衣は、その人の現した行いを表しています。そこに織り合わされた金は、義の行いを表しています。
コロサイ
3:3 あなたがたはすでに死んでいて、あなたがたのいのちは、キリストとともに神のうちに隠されているのです。
3:4 あなたがたのいのちであるキリストが現れると、そのときあなたがたも、キリストとともに栄光のうちに現れます。
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45:14 彼女はあや織物をまとい王の前に導かれる。おとめたちが彼女の後に付き従い彼女はあなたのもとに連れて来られる。
彼女の着る綾織の着物は、高級な織物です。彼女の行いが尊いことを表しています、彼女は、その服をまとい、王の前に導かれます。王の前にその尊さが称賛されます。
付き従うおとめたちは、王の娘と同様にして付き従います。
45:15 喜びと楽しみをもって彼女たちは導かれ王の宮殿に入って行く。
彼女たちにとって、それは、喜び楽しみです。王の前に出るからです。そこで王の栄光を拝することになります。
45:16 あなたの息子らがあなたの父祖に代わりあなたは彼らを全地の君主に任じる。
息子たちに関しては、彼らの役割について示されています。それは、信者が報いとして受ける栄光を表しています。
彼らは、全地の君主に任じられます。そのように、信者は、治める王となります。
45:17 私はあなたの名を代々にわたって呼び求めよう。それゆえ国々の民は世々限りなくあなたをほめたたえよう。
「呼び求めよう」は、「思い出す」です。その名が世々に覚えられるのです。名とは、業すなわち行いのことです。それによって現された栄光です。民が褒め称えるのは、主によって現された栄光です。それが世々に褒め称えられるのです。
・「呼び求めよう」→思い出す。